がんと診断された方やそのご家族を対象に、がんの治療を続けるうえで支えになった医師・医療スタッフからの言葉、勇気づけられたエピソード、あらためて伝えたいありがとうの気持など、「医療者への感謝の手紙」を2018年秋に新聞紙上やチラシ等で募集し、約100名の方々からお手紙が届きました。皆さまからのお手紙は、患者さんと医療者を言葉の力でつなぐメッセージに溢れていました。本当にありがとうございました。 (※具体的な薬剤名、特定の個人や施設名、誹謗中傷や他者の権利・プライバシーを侵害する恐れのある内容、応募テーマに合わないものは掲載していません。)
54左卵管がん直腸浸潤ご本人
セカンドオピニオンで永久人工肛門と言われてやって来た私に「たぶん永久にはならないと思うよ。そんなに人工肛門いや?」とにこやかにおっしゃった先生。その言葉だけでなく、先生の穏やかな表情にカチカチに固まっていた私の心は、みるみる溶けていきました。また、術前検査が- 終わった段階で治療に時間がかかることが判明。手術は2回。その間は人工肛門…もんもんとした気持ちで明日手術という時、先生から「あなたの場合はちょっと回り道するけど、ゴールは皆同じ! 根治だから! 一番大切なのは根治!」と言われました。その瞬間、そっか! そういうことか! と気持ちもスッキリ、心の整理も出来て安心して手術に臨むことが出来ました。患者は全身が敏感なセンサー。何気ない一言ではありますが、私の不安を取り除くには十分な言葉であり、またその時の先生の表情は私の先生方に対する信頼をさらに高めるものでした。ありがとうございました。
70右乳腺がんご本人
「そんな時は、私を呼んで下さい。私が電話に出ます」「そのようなことをしてよろしいですか」「いいですよ」。
これは三ヶ月振りの経過観察受診時の先生との会話です。私は今年四月に、初期の右乳腺がんに- より、全摘手術を受け、経過良好につき、三ヶ月に一度、予約による診察のみで、仕事も含め術前と変わりない日常生活をしていました。六月に、しつこい咳に悩まされ、おまけに声も出なくなることがありました。
私は肺に転移したのではないかとの妄想にとり憑かれ、予約日ではないのに、外来受付に電話をしました。受付では「予約で一杯ですし、あなたは非浸潤性がんですから…」と入れてもらえそうもありませんでしたが、懇願して最終時間に診て頂けました。
その時の先生の言葉です。不安と妄想でノイローゼ状態のような私に、何気ない言葉ですが、「相談に乗って下さるのだ」との思いが伝わり、ありがたいことと思っています。
53前立腺がんご家族(娘)
T様へ
大変ごぶさたしております。お元気でいらっしゃいますか?
そして私達家族の事、父の事覚えていらっしゃるでしょうか。
13年前の夏もすごく暑かったですね…。今でもあの夏と私はいつもつながっ- て生きています。父を亡くし、朝カーテンをあける気力もなかった時、T様からいただいたおハガキにどれだけ救われたかわかりません。そこには
「お父様はいつもブラックユーモアで私達を笑わせてくださいました」とあったからです。
父は最後まで父らしく最後の3ヶ月間を緩和ケアを受けながら過ごせていたのだと思うと、胸があつくなりました。
T様からいただいたおハガキは、私にとってその後の人生を生きる希望の種火になりました。
担当した患者さんが亡くなったら、それで「終わり」ではなく、その後もハチャメチャな私達家族に寄り添って下さった事にとても感動しました。そして、父はT様に出逢えて幸せだったと思いました。父を最後まで1人の人間として接して下さって、ありがとうございました。
80胃がんご本人
「がんはそんなに早く進まない」
69歳の時毎年受けている定期健診で「胃のバリウムの映像に異常があるので早急に精密検査を受けて下さい」という検査結果が届いた。すぐに地域の大きな病院で内視鏡検査を受けたところ、- 結果は「胃がん」であった。一瞬頭が真っ白になった。うちでは手術できないと言われ、迷わずK大学病院で手術してもらうことになった。「大丈夫、腹腔鏡による手術ができます」と言われた。手術は1ヶ月半後と決定した。私は待っている間に手遅れになるのではという気持ちが一杯で、うつ状態に陥った。
持病の血圧が200以上になったら、肺に冷たい風が吹き抜けたりしている症状に苦しんだ。そのことを訴えると外来看護師から「大丈夫ですよ。がんはそんなに早く進行しませんから」と言われて、うつ状態から抜け出すことが出来た。この一言が大きかった。手術は無事予定通り行われ、術後も歩くことや不眠に対しても前向きに対応して頂き、無事退院出来た。
55胃がんご家族(長女)
88歳の父は今年の5月まで一人暮らしを楽しみ、家を守って生きてきました。6月に食べられなくなっているようだと親戚から連絡をもらい、むりやりタクシーに乗せて私の家の近くの病院へ連れてきました。とびこみで入った病院なのに、お医者さんの声かけは親切で、父がとても大事に- されていると感じ、うれしかったです。その日のうちにたくさんの検査をしてくださり、末期の胃がんということがわかりました。
もうこのまま治療もできずに寿命のときを迎えるのかと覚悟しましたが、病院の医療チームのみなさまは、少し認知症のようなところがある父の命を大切に考えてくださり、積極的な治療をしてくださいました。「人間はいつかは死ぬものだが、いくつになってもいい死に方ができるようにと治療を考えていく」というお医者様のお言葉に、私自身が大手術を受ける決断をすることができました。
手術は9時間かかり、胃と胆のうを全摘出しました。約1ヶ月は人工呼吸器のお世話になり、黄疸が出たり、敗血症で血圧が下がり、危険な状態にもなりました。そんな日々でも看護師のみなさまの声かけと手厚い看護に家族もはげまされました。
8月、9月と腸ろうのおかげで、元気を回復し、少々ぼけていますが楽しい会話をすることができました。かけがえのない時間を持てたことに本当に感謝しております。9月末には肝臓に転移したことがわかりましたが、寿命のときまでの時間を大切にしたいです。
68大腸がんご家族(妻)
先生や看護師さんへ心から感謝を込めて
主人が大腸がんと診断されてから二年の月日が流れようとしています。その間に二回転移と吐血で入院し、主治医の先生や看護師さんに大変お世話になりました。気弱にもなり、又わがままを- 言ったりした事もありました。でも心から病の事を受け止めてくださり、とても感謝しています。又いつ転移して皆さんにお世話になるかわかりませんが、主人には一日一日を大切にして精いっぱい生きていってほしいと願っています。
55子宮体がんご本人
「T病院婦人科の看護師の皆様へ」
思いがけず婦人科でも希な子宮体がんになり、手術・入院、抗がん剤治療でまた入院と告知のショックから落ち込んでいた私ですが、看護師の方々からは非常にお世話になりました。- もちろん手術チームの医師の方々にもお世話になりました。感謝しております。
慣れない入院でとまどう事ばかりでしたが、その都度親切に教えて下さり、手術後の吐いた時、ナースコールを押してばかり、だいぶ迷惑をかけました。抗がん剤の時も吐き気に悩む私のために、ごはん食からパン食に変えてもらったり、薬へのアドバイス、食生活への熱の入ったご指導、ありがとうございました。体重が減少しましたが、今では何でも食べられるようになり、うれしい限りです。明るく元気で若い方が多かったです。感謝です。
69子宮体がん(産婦人科)ご本人
命が短い? と思った日から10年。大勢の医師、看護師、医療関係者、友達、家族の協力を得、日常生活を取り戻すこの頃です。総合医療センターで子宮全摘出手術。「子宮体がん」とはどんながんなのか? 私のステージはいくつなの? ドキドキしている胸の高鳴りを抑えるのが必死だったのを- 思い出す。
産婦人科の医師は優しく穏やかに看護師さんを呼び「カレンダーに入院日と手術日を記入して下さい」と指示。予定通り10日間の入院…くしくも5年目の再発。外科のN医師へと繋がれ手術を受ける。術後より半年間抗がん剤投与は通院で始まった口内炎、味覚障害、脱毛と体の変化体験、手足先の痺れ、脚の腫れは現実と受け止めながら「象の脚のように腫れるかも?」リンパ浮腫外来のことを教えて頂き3ヶ月通院して弾性ストッキングを使用し元気に。来春は古希を迎えます。「患者さんの命は私にも分かりません」と勇気づけてくださった先生、ありがとうございます。
76左乳がんご本人
「乳がんでした」
先生のお陰で手術後十年目をむかえます。乳腺外科がなく外科で長年診察してました。そんな時、T大学乳腺外科の先生の診察を受け、一目みてすぐ組織検査をします。「え!!」今まで外科の先生- によりマンモグラフィのみで今日まできました。数日後、先生から家に電話があり、すぐ病院に行き組織検査の結果説明がありました。がんです、手術しますと言われ、目の前がボヤーッとして「どうして、どうして」、先生の説明にステージⅢであれⅣであれ、女医先生を信じておまかせしました。五時間以上かかり無事終え、ベッドに横になっている時、何回も何回も病室に来て下さる、やさしい女医先生でした。その後抗がん剤、放射線の治療に通い、二、三年の命かと思ってましたが今日まで命が続いたことは、あの時の女医先生のお陰です。今は学位をとりすばらしい先生になっていると思います。お会いしてこんなに長く生きてますと言いたいです。ありがとうございます。
53乳がん、スキルス胃がんご本人
「貴女は生きる目をしている」。私は一生忘れられない。スキルス胃がん、リンパ節転移有り、手術不能の延命治療。主治医とは私の方から一方的に距離を置いているような、そんな関係だと勝手に憂いていた。そんな中、知人から誘われた小さな講演会、講師の先生は通っている病院の前院長。- 知人は先生を私に引き合わせてくれた。私は病状、今の気持ちを吐きだした。すると、冒頭のような言葉をかけて下さった。
46歳に乳がん初期で温存手術。3年後にはスキルス胃がん、子供達は未成年。せめて下の子の成人式が見たい。ただそれだけ。
先生の診察は、診察室に入ってくる患者さんの様子観察から始まるとか。そんな先生だからこそ私を見て、私の目を見て、そう言って下さったに違いない。
私は見立て通りになった。全摘出手術をし、3年が経った。今のところ再発はない。あの時、先生に出会わなければ、病より気持ちで押し潰されていたかも知れない。先生の言葉に感謝。
47乳がんご本人
私は23歳の時、乳がんに罹患し、その後31・39歳と再発、女性としてのライフイベントが沢山訪れる年代にも関わらず治療を優先してきました。39歳の時に3度目の乳がんが見つかり、今までの治療を思い返してみると、がんは取り除けて尚且つ術後補助療法も行った。なのに私の乳がんを治- してくれる医者はどこにもいないんだと自暴自棄になり、「死ぬかもしれない」恐怖で苦しい日々を過ごしていました。
紹介受診時に先生と出逢った時の第一声が「君の病気を治して、必ず元気にしてあげるから」でした。その一言で不安が消え、生きる希望をもらえました。それから42歳で4回目の乳がんになりましたが、先生を信じて治療を受ければ絶対に元気になれる自信があり、不安や恐怖やありませんでした。治療や薬について疑問に思うこと、全て教えて下さる先生。私にとっては、ドクターでもありティーチャーでもあります。絶望の淵から救って下さった先生に心から感謝しています。
43乳がんご本人
大きな病気をした事のなかった私が乳がんになったのは42歳。職業人として働き盛り。「これからどうすればいいの?」不安いっぱいの中、休職に入りました。手術、放射線と治療は進み、いよいよ職場復帰を考えた時「仕事はしたいけれど、治療が続くことへの理解と少しの配慮が欲しい…」そん- な一言が言い出せず悩みました。院内にあるがん相談支援センターで「職場への申し訳なさがありながら、術前のように全速力で働くには体力も気力もない」ともどかしい思いを吐露すると「がん治療って思う以上に心と体に大きな負担がかかるの。術前のようにならなくて当然。これからの人生はできる事を見つけて、できる所からやればいい。あなたの体はこの世で一つよ」
温かい言葉に勇気と涙が。「健康な人と張り合うのではなく、むしろ、がんになったからこそできる事ってあるのではないか? そんな気持ちにさせてくれた、がん相談支援センターの看護師さんに感謝です。
44卵巣がんご本人
がんで両方の卵巣を摘出後、腸閉塞で再び開腹手術→腹膜炎でドレーンチューブを刺したままの長期入院…の割に心がメゲることもなく「職業は闘病士です」などと根拠のない自信に溢れた毎日を楽しく生きていた。ようやく深刻さに気づいたのは、ハロウィーンもクリスマスも過ぎた年の瀬。医療- チームが集まった席で、院長から「最後のお正月になるかもしれません。ご自宅で過ごしてみませんか。ご親戚やお友達とも会いたいでしょうし」と退院を打診された時だった。「すぐ救急車を呼べるよう、短縮ダイヤルを設定しましょう」「パウチ交換の練習をします」と俄かに慌ただしくなり、深く考える間もなく迎えたドシャ降りの大晦日。車椅子や荷物でいっぱいの車に乗り込もうとすると、看護師長が追いかけてきて両肩をグッと掴んだ。傘もささず、涙目の笑顔で真正面から私の心に向き合うと「明日から丑年よ、闘病士なら勝てるわ、絶対!」信頼できる人の言葉は強い。あれから10年。師長さん、貴女の断言を心の杖に、私は元気に生きています!
88直腸がんご本人
先生、私はまだ元気に生きています。
直腸がんの宣告を受けた時、死の底に突き落とされた思いになりました。母も義父もこの病で亡くなりましたので、がんは即、死だと思っておりました。私は頑固に手術を拒否し先生を困らせました。-
その時先生は、「人工肛門になるけどまだまだ元気になって生きられます。あなたが手術をせず七転八倒して死ぬのを黙って見ているわけにはいかないのです!」と強くおっしゃいました。そのお言葉で手術を決意し、現在の私があります。
あの日から十五年の歳月が経ち、やがて私は九十路に入ります。
私は先生への感謝の思いを胸に、今日も明日も生ある限り一日一日を大事に、懸命に生きていきます。本当にありがとうございました。
63胃がんご本人
胃がんの手術をしてから、四年経ちます。職場の健診でみつけていただきました。先生から告げられた時、自分の事より、一年前に大腸がんの手術をし抗がん剤治療中の夫の事が気にかかり、二人でがん。そうしよう! 先生は自分が勤務している東京の大学病院で手術しようと言いました- が、私は夫もがんなので、住んでいる所の近くで手術したいと…、が、先生は自分が手術するから大丈夫だからまかせてと言いました。家族で相談後、先生におまかせし、今があります。経過後の定期検査で「ご主人、いかがですか? 何か心配事は?」と、いつも聞いて下さいました。その度、ありがたく心強かった。それから一年後、夫は亡くなりました。最後まで気にかけて下さいました。がん発見とお医者様との巡り合わせに感謝します。五年生存まであと一年、一日一日を大切に生きてゆきたい。又、生かされていると思う。ありがとうございます。
50乳がんご本人
主治医のO先生へ
「がんになったのは貴女のせいじゃない。だから自分を責めないでね」乳がんと診断された私に先生がかけてくれた言葉です。
- 「度胸ありますね!」手術台に上がっても談笑している私に先生がかけてくれた言葉です。
「いいですね!」手術の2週間後にどうしても行きたいコンサートがあると言った私に、先生がかけてくれた言葉です。
「素晴らしい!」術後2年半が経ち、もう自分の中にはがん細胞はいない気がすると言った私に、先生がかけてくれた言葉です。
先生はいつもベストタイミングでベストチョイスな言葉をかけてくれます。おかげで一度も不安になることなく治療を受けられ、毎日を過ごしています。がん患者らしからぬ私のパワーの源は先生の言葉です。ありがとうございます。これからもたくさんほめてください。ますます調子にのって元気になります(笑)
59子宮頸がんご本人
トントン! 細胞診の結果を聞くために診察室の扉をたたき、ソロソロと入室すると、まだお若いのに目の下にたくさんの笑い皺を作り「大丈夫でしたよ。ご心配でしたでしょ」という主治医の言葉に張りつめた緊張の糸が切れました。思い起こせば、この医師の暖かい笑顔に何度救われた事でしょう。- 乳頭から出血の混じる分泌液がでるようなら定期的に検診を続けながら悪性とは認められないという不安な診断のまま、経過観察を20年。昨年乳頭先端のびらんと隆起に通い続けている総合病院を受診すると、そのお若い医師から腫瘍及び乳頭を切除し細胞診をする事を勧められ、覚悟をもって手術に挑みました。手術までの一ヶ月弱、弱虫の私は暖かく丁寧にゆっくりと接して頂き、不安や恐怖心をどれほど取り除いて頂いたか。術中、薬でうとうとしていると、「乳頭残せました!」という先生の嬉しそうな声にハッと目を覚ましました。25年前に子宮頸がんで子宮、卵巣を失い、再び女性器を失い、再びがんとたたかう恐怖と悲しみを息子程若い主治医に訴えていた私にとって、正に「たかが乳頭されど乳頭」辛い腫瘍は良性。暖かく優しい先生に助けて頂き、心から感謝です。先生は未来の宝です。
58乳がんご本人
五十代、乳がん闘病三年目です。その先生には手術から放射線治療、ホルモン療法と、ずっと寄り添って頂いていました。しかし、この春、移動になり他の病院へ移られました。予想はしていたもののショックが大きく感謝の気持ちを伝えられませんでした。その先生はいつも患者である私にまっす
- ぐ向き合い、呼び出しの時はいつも「○○さん、中へどうぞ」と優しい声がかかります。そして診察の終わりには、必ず「一緒にがんばっていきましょう」という言葉がありました。「がんばって下さい」と言われていたら、毎回毎回の気の重くなる通院が、さらにつらくなっていたと思います。
特別なことではないかもしれませんが、絶望の淵に立たされているような気持ちの私には「これからもずっと寄り添っていくので大丈夫ですよ」という気持ちが感じられ、強い勇気がわいてきたのです。心から感謝です。
70肺がん、大腸がんご本人
こんにちは。先生に言われたとおり十二月の三年半目の受診までゆっくり過ごしております。趣味にボランティア、娘家族の手伝い等、元気で充実した毎日です。人間ドックで胸部レントゲンの異常を指摘され、近所の医院で撮ったCT画像を持って伺い「私は肺がんだと思いますね」と言われた- のが私へのがん告知。先生との出会いでした。しかし、先生は「手術をすれば大丈夫。普通に生活できますよ」と励ましてくださり、がんに立ち向かうことが出来ました。
その後、再発が疑われ不安のどん底に突き落とされた私が、大学病院あたりに転院したいと申し上げた時も先生は御自身が最も信頼していらっしゃる先生を紹介してくださり、笑顔で送り出してくださいました。疑いが晴れて、また先生の元に戻った時も笑顔でした。昨年は大腸がんの摘出、今後も先生に支えていただきます。またドキドキしながらお伺いし、笑顔で診察室を出たいと思っています。
56直腸がんご本人
病院嫌いの医者嫌い、自らを「奇跡のメタボ」などとのたまい、五十余年。その大きな代償は、今回の直腸がんの疾病となりました。この八月末に腹痛に耐えかね駆け込み、虫垂炎と診断され、重ねて高血糖治療の教育的入院。そこで先生に大腸検査を勧められて、がんの早期発見。まさに命拾い- でした。あの一瞬の先生の判断と提案が、まさに運命のときと今更ながら感謝の気持ちで一杯です。
入院などしたこともなく、見舞う側でしかなかった自分には、とても貴重な44日間でした。先生が考えられ詳細に説明を受けたプラン(術前準備)をドゥ(手術)→(看護師さんたちの献身的な)チェック(術後)を受け、退院に至ったと痛感しました。
決して優良な患者ではなかったとは思いますが、多忙な中、時間を見つけては回診してくださった先生方や日々生活をサポートしてくださった看護師の方々に改めてお礼申し上げます。
56乳がんご本人
十三年前の春の朝、何気なく胸元に手を当てて気づいた乳がんは、まさに青天の霹靂。不安いっぱいで市民病院に紹介されて電話をかけた私に、落ち着いた優しい声で丁寧に応対して下さったのが院長先生でした。ひととおりの検査を終えたことには、冷静に覚悟ができていたつもりでしたが思わず- 涙。その時の「大丈夫、治ります。治しましょう」というお言葉が、それから私を支え続けてくれました。
多くの医療者に恵まれ、家族や友人、知人に助けられ励まされて過ごしてきた中でも、それまでとは全く別の世界に放り込まれたように感じたあの日。前を向く勇気を与えて下さった先生のお言葉は、忘れられません。思いがけず、がんを患ったことで信頼できる先生に出会い、暮らしを見つめ直して、やりたかった仕事、活動に携わっている今は、とても充実した毎日です。働かれづめの先生を密かに心配させていただいていたのですが、週に二日、素敵な息子先生がデビューされて、ひと安心。これからもかかりつけ患者として、よろしくお願いいたします。
77乳がんご本人
60歳になったばかりの初夏でした。左腕脇のリンパ腺がはれて、ばい菌が入ったのだと思い病院に行き検査を受けました。一週間後、乳がんだと判りました。老先生は「みんなはかわいそうにと思うでしょう。女性の平均寿命は長い。でも貴女の年齢は、もうどんな病気なってもおかしくない年齢- ですよ。がんが特別な病気だと思わないで下さい。10年生きて下さい。がんばって治療して下さい。そして、なるべく普通に暮らす事です。医療は進歩しています」と言われました。それから17年。ステージ4の私は、生きて通院中です。
がんは特別な病気だと思わないこと。今でも時々先生の言葉を思い出しています。
67胆管がんご本人
病名を告げられても名前も場所もピンと来なくて、ただ漠然と私はがんなのだ! と愕然としました。先生の説明では消化器系では大手術になるが手術するのが一番の選択であると言われ、何も考えずに即座にお願いしました。担当医の先生が病室に来られた時、「私は失敗しないので」名文句を残し- たドクターXの大門未知子を彷彿とさせ、この先生にお任せすれば絶対に生還させてくれると確信に変わりました。手術当日、麻酔が効くまで事前に好きな歌手と題名を聞かれていたのですが、すっかり忘れていて手術室に入ったら小田和正の曲が流れた時、感動と緊張と不安が交錯して涙があふれて来ました。その時、先生が「大丈夫よ」と手を握り締めてくれて、すーっと気持ちが落ち着きました。それからは夢の中。気が付けば息子が満面の笑顔で迎えてくれ「生きているんだ」。助けて頂いた先生には感謝の気持ちでいっぱいです。命ある限り残りの人生をポジティブに歩んでいこうと思いました。本当に有難うございます。
76肺腺がんご本人
二〇一六年四月、突然の病で入院。主治医から思いがけない言葉、肺腺がん。末期がん余命二年と告知。私は冷静に涙もなく受け止めた。夫は免疫力を高める事が大切。これから一緒にたたかうのだ、わがままでで甘えてばかりの私を丸ごと力強く受け止めてすごい力がわいて本当にうれしかった。- 翌日から治療、検査と落ち着かない日々。毎朝食事前に主治医が笑顔を見せてくれる。主治医を信頼して心強かった。若い看護師も笑顔で明るくてきぱきとお世話をしてくれる。入院四日目に二人でシャワーを、本当にうれしかった。大丈夫です。絶対良くなります。その言葉に私も病には負けないと心にちかった。午後三時をすぎると地域の方が元気を届けてくれ、面会室は楽しいティータイム。延べ八十余名が来て下され、力になった。一ヶ月で退院、体重四Kgマイナス。とても元気夫の迎えの車で我が家へ。娘家族が待っていてくれた。私は幸せです。元気がある間は他人が笑顔になるボランティアをすると決めた。
68胃がんご本人
私は突然病を宣告され、暗黒の数ヶ月間を過ごしたあの日々を思い返しました。心まで凍ったような日々でした。その後は、すべて順調に進み、7年目の今日この頃を生き生きと過ごしています。
5年間同じ先生だったことは、とても有り難かったです。診察室へ入ると常に「お待たせしました。- お疲れ様でした」とにこやかに声を掛けて下さり、リラックスさせて下さいました。短時間でしたが検査結果を示して、「大丈夫でしたよ」と明るい表情で心配りをしていることがよく伝わってきました。5年間の診察最終日に「いつもお元気でいらして下さい」と言われ、もう先生と会えない事に少し寂しく感じました。この先生のお陰で生きられたと痛感しています。今は、がん患者だった事を一時忘れ、何事も無かったかのごとく老いを快活に楽しみながら暮らしています。感謝合掌
62膵臓がんご家族(娘)
母が膵臓がんと診断された総合病院での治療も限界に達した頃、地元に近いN病院に転院となった。母にとっては不本意の転院だったようだが、そのN病院の院長先生との出会いによって母の闘病態度が変化したような気がする。お見舞いに行くと「この間も院長先生からいい話を聞いた」と話すこと- があった。そのとき母に「どんな話?」と聞くこともせずに、私は「それは良かったね」というような返事しかしなかったが、母は満足気の表情をしていた記憶がある。
結局、母はN病院に1年ほどお世話になって亡くなった。そして、その2、3年後に風の便りで院長先生が、がんでお亡くなりになったことを知った。私の推測であるが、母と院長先生は医者と患者という関係だけでなく、がんサバイバーとして共感し合い深い絆で結ばれていたのかもしれない。闘病中の母の痛みや不安に心から寄り添ってくれた院長先生に改めて感謝申し上げたいと思います。
73尿路がんご本人
四国八十八ヶ所お遍路、最終県出発の前日の朝、トイレの便器にきれいなピンク色の尿がひろがった。ただならぬ事態に茫然自失。ツアー帰宅後、医院にいく。検査に異常はなく「感染症だったのでしょうかねー」と言われ、椅子から立ち上がった時、「念のため細胞診を調べてみますか」と。-
一週間後、大学病院を紹介され、一ヶ月半後には尿路がんを宣告される。左腎臓摘出手術を受け、そろそろ退院という時期、私は卓球の試合に行く時に聞く音楽を耳にしたら「もう二度とないんだろう」と思い、どっと涙があふれてきた。その時、看護師さんが部屋に入ってきた。「泣きたい時は思いっ切り泣きなさい」とだけ言って出ていかれた。
その後、半年ごとの検査と近くの医院に月一回通うことになった。何回か通ったある日、私は再発の不安を訴えると、医師は「忘れることです」と一言。三人の方の一言で私は今を生かされ、明日を生きる希望を持った。
89胆管・肝臓がん ステージⅣご本人
「まさか自分が」
平成26年4月28日、胆管肝臓がん切除。平成26年5月12日、退院。抗がん剤1ヶ月に2回点滴41回。平成30年10月2日、検査結果、点滴終了。3ヶ月に1回採血、腫瘍マーカー検査。現在3回目- です。
執刀医の先生が同里、後輩、さぬき方言で毎回(現在も)「いいよ、頑張とるな」と励ましのお言葉を頂いています。入院生活も、私は言いたい放題、がんの事も忘れる生活が出来ました。助手の若い先生は何時もニコニコ笑顔、お部屋が明るくなりました。現在も予約の日まで対象を気にしながらの毎日、第二の人生をいかされている事に感謝感謝でございます。
66脳腫瘍ご家族(祖母)
ユーちゃんの遺影は、病院の保育士さんが撮って下さった写真です。微かにほほえむ口元、頬杖をついて、夢みるように遠くを見つめる眼差し。その優しいお顔を見るたびに、なぜか永遠という言葉が浮かんでくるのです。お世話になった病院では、お医者様をはじめ、看護師さん、保育士さん、- 訓練士さん、技師さん、薬剤師さん、お掃除や給食の方々等々、本当に数えきれないくらいたくさんの方々の支えの中で、一日一日を大切に生かしていただきました。
重い治療にもかかわらず、最後まで病を知らぬ幼子のような笑顔が消える事がありませんでした。回らぬ舌でお世話をいただくたびに「ありがと…ございました」とニッコリ笑ったユーちゃん。皆さんが家族同様に可愛がり、優しくして下さったおかげと、いつも心から頭の下がる思いと感謝の気持ちで一杯でした。
お散歩が大好きで「あるこ♪あるこ♪わたしは元気♪あるくのだいすき♪…」とトトロのさんぽの歌を歌いながら、院内の廊下を歩きました。片手でユーちゃんの手を握り、片手で点滴を押しながら歩いていると、すれ違う方々みなさんが「ユーちゃん♥」と声をかけて下さいます。そんな時、ユーちゃんは、ニッコリ笑って嬉しそうに手をふるのです。「○○先生」「○○さん」「○○ちゃんママ」しっかり名前を覚えていて、応えるのです。
歩行が少し困難になった時、訓練士さんが工夫して『ユーちゃん号』という乗り物を作って下さいました。それに乗る事を何より楽しみにして、亡くなる寸前まで玄関近くの窓からタクシーやバス、声をかけて下さる方々に手をふっていました。
命の輝きは、決して長さではないと確信できましたのは、様々なサポートをして下さった医療関係の皆様のおかげと、ユーちゃんにかわり、深く深く心よりお礼申し上げます。
75胃がんご本人
市の健診結果を受けて「胃がんです。2/3を取ります」。主治医の穏やかさと細やかな説明に何の不安も迷いも無く受け止められました。全身麻酔が切れた時から「痛い!」の連発。手術に付き添った娘が「一日二日は痛むって先生が言ってたよ。頑張ってね」二日目も痛みは続いて居ましたが、突然思- いがけないお顔が病室に。「如何ですか、頑張りましたね。歩いた方が回復が速いそうですよ…」さり気なく優しい励ましの言葉。外来でお世話になっていた看護師さんでした。とても嬉しかった。早速歩行実践。病棟の看護師さんがよく付き添って下さいました。そして順調な回復の日々。日頃はポーカーフェイスの先生が「食事指導は受けましたね…」念を押され、こぼれる笑顔で「明日退院です」。術後一週間での退院でした。
この街で安心して暮らしていける。優しい言葉と笑顔に励まされ、心和らぐ入院生活でした。
76膵臓がんご本人
地方都市の郊外の、まだ農村の雰囲気が残る所で独り暮らしをしている。約9ヶ月前、膵臓がんで大手術をした。息子たちは他県在住で入院中のあれこれも何かと不自由で、ついついうつ状態や不機嫌に襲われた。術後1月余りして退院の話になったが、独居での生活は不安と恐怖で見通しも立たなか- った。そんな中、病室のケースワーカーを中心として、医師や包括支援センター職員等が退院後の生活支援に向け動き出してくれた。その迅速さと適切さに目を見張るばかりだった。田舎の生活にあった介護サービスメニューや近隣の人達をも巻き込んでの非常時のバックアップなど、細部にわたり行き届いた支援を考えてくれた。20年前に夫を亡くし、独り暮らしをしていたが、今回のことで今までいかに頑なに生きてきたかを自覚した。そして他からの厚意を素直に受け入れるようになりつつある自分に気づいてきている。医療福祉関係者の熱意あるチームワークに感謝し、今後自分らしい平穏な日々を送ってゆこうと考えている。
83胃がんご家族(娘)
「父の最後の言葉」
今から四十数年前、父は末期の胃がんと宣告を受けました。子供たち六人で相談の結果、手術はせず本人には知らせず父の思い通りの治療をすることに定めたのです。総合病院ではなく、家の近くの- 病院の院長とは昔なじみ、婦長さんとも古いつき合いという事で、この病院にお世話になることにしたのです。もちろん抗がん剤治療はせず、ただただ毎日思うように過ごしました。
本人は病院での生活に喜んで看護師さん達と冗談を言ったり、「ここは天国や!」と病院での生活を楽しんでいました。
院長先生と昔話をし、また婦長さとも我が子の幼い頃の思い出話を喜んでいました。
そしていよいよ最期の折には、意識のないなか、最後の言葉「T病院バンザイ!」と大きな声を発したかと思ったら、静かに逝ってしまいました。
71膵がんご家族(夫)
65歳の妻が膵がんの診断を受け、早急の手術を医師から告げられました。膵がんは、がんの中でも最も恐いがんであり、私は動揺を隠せませんでした。幸い主治医は温厚な先生で、病態の状況や手術の仕方等しっかり説明してくれて、質問にも納得するまで丁寧に答えてくれました。手術当日、看護師- さんに誘導されて手術室の扉の前まで妻と同行しました。「ご主人はここまでです」。私は置き去りにされた気持ちで、そこで二人を見送りました。そして、実際の手術室の第二の扉が開いて二人が中に入る時、その看護師さんが妻を支えるように、そっと肩をやさしく包んで中へ入って行きました。私は手術の経験がないので、さぞや手術室は冷たく、そしてあの冷たいメスを想像しましたが、看護師さんが妻の肩をそっと包み込む後ろ姿を見て、一瞬手術室が暖かく感じられ、心細い私の心まで暖かさで満たされました。私は妻の病室へ戻り5時間、妻の手術の無事をずっと祈り続けました。
67乳がんご本人
先生から戴いた言葉「一生です」は、私の宝物となりました。それは手術前に同席者が手術側上肢に対して負荷や注意の期間を尋ねた時の先生のお答えでした。その説明に落胆しましたが、すぐにすっと肩の力が抜け気持ちが軽くなりました。そう、明日からの私は新しく出発する私であり、出発前に- 戻る必要はない。その中で最善を尽くせばよいと。そして、抗ってばかりいた老いとの向き合い方まで考えさせていただきました。もし、あの時、一生ですの前後に不自由や残念等の言葉が付いていたなら、私は落胆し何かに追われる余裕のない日々を送っていたに違いありません。
先生は、いつも事実のみをお伝え下さいます。その静かな口調の丁寧なご説明は、いつも私の感情を平穏に保ち、理解を助けてくれます。
お陰様でこれからも病と老いと仲良く気長に、そして前向きに付き合っていけそうです。深く感謝申し上げます。
61乳がんご本人
「演出」
4年前、乳がんになった。告知を受けて以来、不安と泣きたい気持ちで一杯だった。そして手術当日。私はひとりで手術台へ。しかし、ふっと正面に目をやると黄色の光輝く大きなブーケが- パァーッと目に入った。それはそれは美しく、よく見ると夫の友人のK夫妻からだった。ただこれが、私の心がどんだけ救われたか。
それにしてもこの演出。私が目を開けた時、まずそれが目に入るようにセッティングしてくれたU先生。きっとお見通しだったに違いない。
90男性右乳がん(全摘出手術)ご本人
隣のベッド回診の先生は「○○さん、あなたの病気は私どももよく承知しているので、△△(主治医)先生不在の時も心配しないで、私たちに声をかけてくださいね」とカンファレンスのチーム医療。他病院兼務診療の帰途、必ず立ち寄り一声かけて帰宅された担当医。年明けの予定の手術- は年末に繰り上げられ、ドレーンパイプを装着した身体で正月の自宅外泊を奨められた担当医。後日「『来年正月の保証はない』との医師のご配慮だった」と看護師さんから聞かされた。
8階がん病棟の窓に鉄格子のある時代。60mmのシコリの自覚。「男性乳がん」の診断。乳腺を囲む右大胸筋の全摘。皮膚移植を含む150針の手術糸のつくろい痕。
退院後、妻が闘病家族の思いの礼状を主治医と執刀医に手渡し、筆字回復の右手で近況年賀状を。主治医とはお亡くなりになるまで25年。執刀医とは術後45年の賀状交流。
53乳がんご本人
女性の十一人に一人。統計の数字から見ても驚く病気ではなくなっている。けれども、いくつもの検査を受けている間ずっと「大丈夫、良性」「がんじゃないことに安心するための検査なのよ」と必死に私を励ましている自分の声があった。人生において初めて乳腺科を訪れた五月晴れの日、私の左胸- のしこりを見た時の主治医の先生の表情から、やはりと感じていたはずなのに…。「乳がんですね」検査の結果を告げる先生のいつも以上に明るい声のトーンに拍子抜けしてしまった。「右下奥から3本目がむし歯ですね」と説明を受けた時と変わらない。昭和のドラマで見た、がん告知とは全く違う。私は先生の事実を率直に伝えて下さった一言から、恐怖より安心を感じた。先生が医師として、この事実を伝える役目を担ったのは、何度目だったのだろう。その後に続く患者さんの言葉は、どのようなものが多いのだろうか…。一人悶々と正体がわからない自分の体の一部に怯えていた時間は長かった。正体を知ってしまうことも恐かったし、どこの病院で受診するべきかが決められなかった。とにかく一歩踏み出さなくてはと、息子の高校時代の友人が手術をした、自宅から通いやすい総合病院を初めて訪れることになったのである。
同窓会で久しぶりに会った、かつての級友のように、先生は気さくに冗談まじりの雑談をして下さり、普段お目にかかる機会がなかったお医者様のイメージが大きく変わった。男性週刊誌のランキングに登場する東京の大病院などへの紹介状という選択肢も用意して下さったのだが、私は、美しい木々の中にひっそりと佇むクラシックホテルのようなこの病院で、先生とのお喋りを楽しみながら治療に向き合っていこうと決めた。スタッフの皆様のおかげで、抗がん剤治療も前向きに乗り越えられて、心から感謝しています。
73乳がんご本人
あの日から30年。
退院の日、カンファレンスルームで主治医の先生が「あなたは、乳がんと言われ大変なショックを受けたと思いますが、現在自分は元気だと思っている人も明日の命は分からないものです。- 手術で心配な場所はとりました。今後は前向きに明るく生きてください」と言って下さいました。そのお言葉は、術後28年経った今でも、私の生きる道標として大切に残っています。
77大腸がんご家族(妻)
K病院へ紹介状が渡されて、病名は大腸がん。難しい患者は心臓にも問題を抱える故の、選ばれた病院でした。正面玄関の井筒の紅い実が私たちを励ましてくれて、迎えられた入院日でした。
検査、検査の繰り返して体力の減少もあってか、病院側の配慮か手術日が年明けの1月5日になり、夫は幸い- にも身辺整理の時間があたえられたのです。
主治医の名前が挙がっては消される現実も見せられました。そして3番目の医師は、やって来て「私がいたします」と。愛と勇敢な志をそそいで下さったお方は、I先生でした。この素晴らしい出会いは忘れられません。先生、有難う御座いました。
術後、せん妄の震えるような病態に泊まり込みで看護した日々が乗り越えられ、医療関係の多くの先生や看護師さんと共に喜ぶ日々がいただけました。生かされた貴重な記録は私たちの宝物です。
76肝臓がんご家族
術後四年、再入院。朝夕病室をのぞいてくださり、私にも「大変ですネ」といたわりの言葉を。そして病状を説明してくれました。学会に行かれる時は「○○先生にお願いしてありますからネ」と心配りくださいました。その後、通院になっても、いろいろと気配りいただき、不安な毎日の中の救いで- した。
救急車で再入院し二日目、休日にもかかわらず駆けつけてくださり、親類がベッドを囲み交互に呼びかけ、心電図が何度も変化を繰り返す間、ずーっと見守り続けてくださいました。そして最後に「こういう最期は初めてです。勉強になりました」と。そして、家族を詰め所に呼んでくださり、遠方で暮らす息子達に、病状について詳しく説明していただき、息子達も納得し、見送ることができました。
六十二歳という若さでの旅立ちでしたが、すばらしい先生に出会い、看取られての旅立ちでした。M先生、大変お世話になりました。本当に有難うございました。
76胃がん・肝臓がんご家族(母)
どの写真を見ても笑顔一杯、元気溌剌、スポーツをこよなく愛し、楽し続けてきた娘の人生を突然に襲ったがんの病魔。「胃の半分以上が、がん細胞に覆われ、肝臓にも転移しています。肝臓から治療を始めましょう。肝臓への抗がん剤治療が胃がんにも効果が得られることに期待しましょう」と医師- の言葉。
翌日から半年余り続く入院生活が始まりました。結婚を諦め、生活の軸足を仕事にと決意を新たにした矢先の出来事に、ショックと悔しさを乗り切れるだろうか? そんな不安な心を抱き、弱気心に陥ると「会社に戻りたいんだろう!」と、そっと寄り添って背中を押して励ましてくださいました。30年ぶりに再開した同居生活も、会社に戻るには「独居生活優先」の先生の言葉を胸に、早々に退去! 念願は見事に叶い、晴れて会社復帰を果たしました!
しかし、2週間後に出勤途中に倒れ、緊急入院に。「先生、会社に戻れて最高に幸せでした! ありがとうございました」と喜びと感謝を胸に、爽やかな笑顔で静かに旅立ちました。
71乳がんご本人
「ありがとう先生」
十数年前に、がんの告知を受けた。その時、先生が「これから辛い日が続くと思いますが、一緒に頑張りましょう」と言って下さった。この時の先生の一言と暖かい眼差しのお陰で、手術・化学療法- ・ホルモン療法・再建手術と強い副作用を乗り切ることができたと感謝している。又、どんな質問にも真摯に答えて下さる。
「どう?大丈夫?」「無理しないでね」等々の暖かく優しい言葉かけや、力強い励まし、穏やかな笑顔に接すると、フッと肩の力が抜けて楽になる。前向きになれる。
「医は仁術」とは、正にこの様な姿を言うのだろうか。
この先、もし再発や転移が生じても、先生との強い信頼関係があるから、怖くない。何の心配もない。ありがとう、先生。
54肺がんご家族(娘)
父は、88歳の夏に肺がんと診断されました。主治医は若い男性でしたが、人生の先輩への尊敬のようなものが感じられる態度で接してくださいました。耳は遠く、言葉もどんどんとは出てこず、コミュニケーションしにくい患者であったと思いますが、私たち家族でなく父の目をみて見立てを説明し、- 父と一緒に治療内容を決めていかれました。父の意思は「これまで通り生活し、東京の息子夫婦の家をもう一度訪問し、念願の鉄道博物館にも行きたい。訪問診療を受けながら、痛みだけはないように、最低限の治療を受けたい。」でした。お正月まで、母が作る大好物を少量ながら食べて自宅で過ごし、1月の終わりにホスピスに移りました。「もう十分生きて好きなことしてきたから、何も怖くなかもん。」と言う父の言葉は強がりではなさそうで、「すごいなぁ。こう言える人生を送りたいなぁ。」と心から思うこともでき、家族にとっても良い時間となりました。ありがとうございました。
60肺がんご家族(息子)
父は、最後の2週間あまりをホスピスで過ごした。その間、父の部屋で、父の寝息を聞きながらベッドサイドで仕事をした夜も多く、そんな中でも父の調子が良いときは、久しぶりに息子として父とゆっくり会話ができたことを、今でもよく思い出す。父の冗談に付き合いながらテキパキと働く看護師- さん、部屋の入口にそっと飾られているボランティアの方々による心づくしの花、ほかの部屋ではペットと過ごされる患者さんもいて(部屋の中はペットを自由に歩かせてOKだということに驚いた。ホスピスでは普通なのだろうか)、病院全体の温かさが伝わってきた。スタッフの皆さんがいつも笑顔とあいさつで迎えてくれることにもほっとした。ここで父と過ごせたことを感謝している。
45虫垂がんご本人
いつも、私の突拍子もない質問を親身になって聞いてくれて、一緒に方策を練ってくれてありがとうございます。お医者さんや看護師さんと同じくらい、時にはそれ以上に頼もしい医療ソーシャルワーカーのあなたは、本当に心強い存在です。病を得て、不安もたくさん得て、押しつぶされそうになる- たびに、1Fのカウンターで目を三角にして呼び出し、纏まらない私の頭の中を優しく解きほぐしてくれるIさん。素人には複雑怪奇な社会保障制度をわかりやすく説明してくれて、利用できる様々な制度を使って、私は3年間、安心して治療ができています。
病気しなかったら会えなかったので、縁は奇なものです。かなり年下のあなたのお仕事に取り組む姿勢、とてもとても尊敬しています。面と向かっては、恥ずかしくて言えないけど。
これからも、「ど、ど、どうしよーーー!!!」と駆け込むから、どーんと構えて受け止めてやってくださいませ。
ご本人
先生、お元気ですか?仙台の病院に行かれて何年経つのでしょうか?私は今年も、先生の最後の診察のお言葉「あなたは神様に選ばれた人」をいつも胸に、フラの指導と自己研鑽に励んでいます。
手術をして戴いて早17年、今の私があるのは先生のお蔭です。病気の事を、調べては落ち込む私に、先生- は「代わりに勉強させてよ」と本を全部譲るよう言われました。術前の診察でも「練習しておくから安心してね」とひょうきんなご発言。どちらも思わず笑ってしまいました。そして、術後の再発を恐れる"綱渡り"の様な心境を吐露した時には、「落ちたら又登ってくればいい」と優しく肩を叩いてくれた先生…。
手術とお薬、そして患者の心を癒し、病に立ち向かう勇気を与えるのはお医者様の一言。
患者の心にそっと寄り添ってくれた先生、年に一度、"選ばれた人"の生き様を年賀状でお伝えすることが、私の大きな励みであり、務めであると思っています。
57肺がんステージ4ご本人
私は、2014年春に肺がんステージ4と判明してから地元の病院で全幅の信頼を寄せる主治医をはじめ周囲の方々に支えられながら楽しく生活しています。しかしどうしても埋められない、病の不安と各薬剤の副作用に対する孤独感のようなものがありました。仕方がないこと・元気に生活できているのに- わがままだ・うまくコントロールできる薬を処方してくださっているのに愚痴はこぼせないと、自分を押し込めていた迷いや辛さが心の底に固まった泥になっていました。ところが、2017年1月頃、N先生が抗がん剤治療中に感じられたモノトーン生活や、味覚障害の現実を発信された新聞記事に、思いがけず巡り会い、深い安堵を覚え、心が軽くなる感覚がありました。軽くなって、初めて、固まった泥になっていたことに気づいたというほうが正直な気持ちです。
病を得たからこそ出会えた人に感謝や感動を伝えたい、そしていつか元ちゃんハウスに伺いたいと目標にしておりましたが、先生の訃報に触れ、叶わぬことになってしまいました。もうお手元には届かないですが、私の思い残しを文面にしたため心の内から外へ飛ばしたくなりました。今もガンと共生し、変わらず職場で働いています。落ち込みそうなときは、N先生の記事を読み返しながら感謝し、薬剤の恩恵を受けて生きます。
71乳がんご本人
がんになっても悪い事ばかりではないです。それは太陽のように明るく、暖かく包んでくださった先生のやさしい気持ちに出会ったからです。がんになり、仕事も趣味の社交ダンスもできなくなると思っていましたが、ずっと続ける事ができました。そして、あのひと言があったから…。- 「まだ若いのだから、あきらめないで全部そのまま続けたらいいよ。社交ダンスの発表会は見に行くからね」と、何げないそのひと言で、若くはないけれど頑張ろうと前向きに考えました。そのためか、副作用もほとんどなく、病気を忘れて身体を動かす事ができました。
その一方で、病気になって相手の気持ちも理解できるようになり、民生委員の仕事もやさしい気持ちで思いやりを持ってできるようになり、がんになって得る事もたくさんありました。先生、感謝、感謝しています。
68肺腺がん(1B)ご本人
健診の再検査で受診したその日に「初期がんの可能性大だから、手術の方向で」と告げられました。私にとっては青天の霹靂で執拗に「どうして、なぜ」をくりかえしました。すると先生は「今、今が大事。今やるべき事だけ考えて」と必死に言って下さり、すごく使い込まれた通信機器で一生懸命、- 方々に検査の手配をして下さいました。
私はこの時の先生の言葉と真剣な姿が忘れられず、がんばらなくてはと思いました。
そして外科では、手術後の抗がん剤の有無でずっと迷い続けましたが、先生は気長につき合って下さいました。おかげ様で納得のいく治療に落ち着く事ができました。又、診察の最後には「きょうも看護師(緩和ケア)さんと話していったら」とか、不安げな私を見抜いて、いつもさりげなく声をかけて下さいました。
先生方、看護師の方々、スタッフのみなさん、大変な大手術とケアをありがとうございました。これからもよろしくお願い致します。
75大腸がんご家族(妹)
「在宅看護への感謝」
今年の春迄、クリニックの皆様方には、大変お世話になっておきながら、ひと言のお礼も言えぬまま、今日に至っておりますこと、深くお詫び申し上げます。姉は残念ながら召されてしまいま- したが、皆様にきめ細やかな見守りをして頂きましたこと、とても幸せだったと思います。七十八歳の誕生日のサプライズには驚きでした。わざわざバースデーケーキを届けて頂き、記念にと写真も撮って下さるなど、思いがけないプレゼントに、生まれてからこれ迄に一番嬉しい誕生日だと姉は大喜びし、幸せいっぱいの様でした。沢山の腫瘍で固まったお腹や持ち上げられない位、浮腫んだ足でありながらも、先生の的確な診断のもと、姉はあまり痛みを感じることもなく安心して穏やかな毎日を送ることが出来ました。又、皆様の連携の速さ、きめ細やかさには驚きました。命の終わる間際まで、ベッドを取り替えて下さったり、歯の治療をして下さったりと精一杯のことをして頂き、きっと姉も、もっと長生き出来るのではと錯覚さえして、穏やかでいられたのではないかと思います。そばにいて私も姉と共に癒やされ、励まされ、皆様が来て下さるのが楽しみにさえ思えていた様に思います。心をつくして下さった皆様には、唯々感謝あるのみです。ありがとうございました。先生には在宅で姉夫婦の最高の看取りをして下さいました。来られた時は、庭で草木をながめられ、一呼吸おかれソフト帽を玄関に置かれ、必ず仏間にお参りして下さいました。意外なこと、でも姉は嬉しかった様でした。梅のとぼみをソフト帽、懐かしく思い出と共に深く深く感謝致します。皆様の温かさに守られて、いい介護を終えることが出来、私も少しは学びになったのではないかと思います。ありがとうございました。
76低分化直腸がんご家族(妻)
思いがけない配慮
直腸がん手術後の初めての夏、夫は一ヶ月山の家で過ごしたい事を先生にお話し「良いですか?」と尋ねました。その時、触診の手が一瞬止まり、数秒の沈黙に、私は何故かドキッとしました。- でもすぐに何事もなかった様に、いつもの優しい大らかな表情で「大丈夫!いいですよ。気をつけて存分に楽しんで来て下さい」と明るく送り出して下さいました。
九月のCT検査後「良かったですね。良い事もありますよ」と言われた時、前回怪しい不安な箇所があった事、そして患者が察知しない様に、もしや?の恐れの言葉は先生御自身の心の中だけに収めていて下さった事に気がつきました。そのお陰で、夫は最後となった大好きな山の家の生活を満喫し、安心してかけがえのない幸せな夏の日々を過ごす事が出来ました。嬉しかったと思い、感謝の気持ちで一杯です。大丈夫!の一言。本当に有難うございました。
62悪性リンパ腫ご本人
唾を飲んだ際の痛みから地元の耳鼻咽喉科を受診。扁桃に腫瘍?が存在とのことで、がんセンターを紹介された。頭頸科で組織検査を実施するも、5日後がんではない由。そんなはずはないと主張。再度の組織検査の結果3日後、頭頸科ではなく血液内科のがんと判明。抗がん剤投与直後、具合を- 聞かれ、大きな異物が移動した感覚と答えると、先生はニッコリとされ、そこ迄ハードルが極めて高いと感じていたので、かなり気持ちが和らいだ。数年前に開発された新薬投与回数予定にも開きがあったが、先生は私の希望を聞いてくれたのか、回数が減った。また同薬と放射線治療の副作用で、首の皮膚が荒れた際にも、治りかけで問題ありませんと言われた。寛解後の経過観察時には、むしろ先生とのコミュニケーションを楽しんでいる自分にある時気づいた。家庭内においても病気に通じたコミュニケーションは、なかなか難しいのであるが。お世話になりまして、ありがとうございました。
67尿膜管がんご本人
K先生との出会いは、今でもはっきりと覚えています。それはちょうど尿膜管がんで骨転移の激痛に悩まされていた頃、放射線治療をすすめられ「一緒に頑張っていきましょう」と言われたことです。言葉の力はすごいですね。おかげで不安も消え、これからの希望がもてました。その後も入退院の- 繰り返しでしたが、病棟へ顔を出しては楽しい話をされたり、私の質問にも答えて下さって、ありがたく思っていました。それになぜか先生とお話しすると不思議に笑顔になり、元気をもらえます。
また、趣味の絵手紙を送った時、鬼の絵と言葉が気に入ったと診察室に飾ってありました。うれしくてますますやる気がでました。
私が今日まで明るく前向きに生きてこられたのは先生の支えあってこそと感謝しています。ありがとうございました。くやしいけど今では私以上に友達の方がK先生のファンですよ。これからもよろしくお願いします。
61子宮体がんご本人
ベランダで咲く日々草たちの姿を見て、ほっとするひととき。こんな平穏な気持ちは、ほんとうに久しぶりです。思えば、今年の一月二十四日、まさかの子宮がんの告知がありました。それから、二月七日の手術、術後の4クールの抗がん剤投与でめまぐるしい月日を過ごしてきました。副作用で、- 髪の毛が映画のようにごっそり抜けたり、何も食べられずにだるく起き上がれない時があったり、自分が「がん」になってしまったと思い知らされる毎日でした。今も通院中です。
そんな闘病生活の中で、心の支えになったのは「がん相談支援センター」のがん相談員のSさんの存在です。告知の日から、ずっと病気についての悩みの相談にのっていただいています。医師に聞けないようなことでも話を聞いて、的確なアドバイスをしてもらっています。困ったらSさんのところへ行くことができるというふうに思えるのは、大変ありがたいことです。これからも、どうぞよろしくお願いいたします。心から、そう願っております。今、平穏な気持ちでいられるのはSさんのおかげです。「Nさんは、お孫さんのお世話をしてあげたいのよね」と、よくわかって下さっていて本当にありがとうございます。がんばります!
75乳がんご本人
そっと寄り添って下さり有り難う
ある日突然のがん告知。手術。不安で辛い抗がん剤治療が終わり家族共にホッとした時、夫が大学の同窓会で京都に行くことになった。毎年京都へ同行していた私は、どうしても一緒に行きたく主治医- に相談すると、あっさり「いいですよ」と許可された。それまでは「白血球が減少して抵抗力が落ちているので、絶対に人混みは避けて」と言われ、好きな音楽会の外出も我慢してきた。抗がん剤治療を終えたら「いいですよ。好きな事して」と、ゆるやかにおっしゃる。治療中は「私のがんちゃんお願い。暴れないで」と、祈る気持ちしか無かったが「さあ、今やれる事を楽しもう」と、気持ちが前向きに切り替わった。いつも丁寧に応じて下さるドクターやナースの方々の笑顔に励まされ「私は大丈夫。生き抜こう」と、強くなれた。決して口数多くないが、不安を訴えると「大丈夫、治るから」と言われ、不思議とその気になったのは、ドクターのお人柄かと感謝しかない。
胃がん、口腔腫瘍、腺様嚢胞がんST2ご本人
私、思いもよらない出来事でした。H22年4月、胃がんがみつかり、すごくショックでした。色々検査後ステージ4、手術を5月に受け、三週間で退院しました。全摘です。何度か通院する間、食べられず栄養価の高いジュースやお薬で調整してもらいながら、思わしくなく再入院。4ヶ月後、食べて- は吐きのくり返し、接続部分の不具合で通らず、バルーン術、週一回で三週続き、その時に看護師さんがトウフィール(豆腐です)を付けて下さるようにして下さり、一番に頂き、スムーズに頂けるようになり、色々と気遣って下さいました。
今も食べる事には、気を付けて自分なりにH29年5月に卒業出来ました。「全摘で、ここ迄回復する人は少なく、良く頑張りましたね」。先生からのお言葉を頂きうれしかったです。今は、美しいお花を見に行ったり手芸したりして過ごしています。
----又一つがん見つかり綴ります----
その間にも狭心症でステント留置術、腸閉塞で何度か救急車のお世話になり、大変でした。又新しい事が見つかりがっかり。H30年7月の検査結果で口腔底腫瘍との事。その部分だけ切除ではダメとの事。8月にもう一度切除です。その時に看護師さんから「ネットに振り回されず、先生、私達が付いているから安心して下さい」。その言葉は、どれ程大きかったか。すごく励みになり、大変うれしかったです。一人で持っていないで、色々な人とお話しして下さい。シルバーに入会して自分の出来る事に参加していますと、多いに結構、どんどん出て行って下さいとの事で、楽しんでいます。
※入院中に少しの時間に移動可能な人はフラダンスがありますので見に来て下さいとアナウンス有りで楽しい時間でした。こんな心遣い大変うれしかったです。
54上咽頭がんご本人
現在、三度目の上咽頭がんと闘病中です。最初の告知は二〇一三年十一月。十二月から入院し、放射線、抗がん剤治療を行い。二〇一四年二月に退院。二〇一六年五月に再発。六月に入院し除去手術し、七月に退院。昨年二月に三度目の告知を受け、抗がん剤で闘病中です。私は「私の病気に関わ- ったすべての医療者に感謝したい」です。その中で最初の入院時、担当看護師さんです。面談で、最初の質問が「いつまでに退院したいですか」でした。当時、大学時代のゼミの同窓会の幹事をしてました。何とか出席したいと思っていたので「同窓会の前日」と答えました。看護師さんは「一緒に頑張りましょう」と。「頑張ってください」との答えを予想していたので、驚くと同時に一緒にやっていくのだと前向きな気持ちになりました。結果、退院日は見事「前日」でした。
85直腸がんご本人
あれから長い様で短い三年が無事過ぎようとしています。まさか自分にがん告げられるとは思ってもいなかったし、身内をがんで亡くしながら未だ無知である自分に目覚めた日々でした。幸い手術が無事終わり三日目からリハビリが始まりましたが縫合不全をおこしてしまい、二十日近く点滴だけの日- が続きました。そしてやっと食事がとれるようになったその日、配膳の方がカーテンをそっと開けて「よかったですね」と声をかけてくれたのです。ひそかに心配してくれていたなんて。それから二年目の時、胃カメラのベッドに横になって、「よろしくお願いします」という私に「こちらこそよろしくお願いします」と答えて下さった先生がいました。薬を飲むこともなくすんだ私にとって、この二つの言葉が最良の薬になったことに感謝しています。退院の日は、窓際のトトロの樹にも思わず手を合わせました。
82胃がんご家族(妻)
主人の糖尿病を学会で発表されました先生から「そろそろ胃の検査をしましょう」と大学病院の消化器外科の先生をご紹介頂き、胃の入口に悪性のがんが見つかり、全摘出手術を受けました。手術室の入口で「がんの細胞と五三有るリンパは、すべて異常有りません」と。助かると思いました。- 退院後、逆流が厳しい生活でしたが、診察室では「歩いていますか。歩く事は一番ですよ。頭も高くして寝ていますか」沢山の助言を頂き、今年五年目。先生が笑顔で「奥さんのお陰ですね」。私も大変嬉しく笑顔で頭を下げました。
主人は眼科の先生にも最善の手術、治療を受けておりますが、大変厳しく、失明し、現在も治療中です。今年で四年目。土曜日曜の朝は、私が主人の両足のマッサージをし、九時には息子と二時間の散歩に行くのが習慣に。先生にも嬉しい報告が出来そうです。
私も主人の眼になり杖になりましょう。先生、ありがとうございます。
76胃がん、食道がんご本人
「がん勉強会の裏方が生きがいになった」
もう、10年になりましょうか。胃がんになり手術で治療、その一年後に今度は食道がんに罹りました。胃がんの宣告を受けた時は頭が真っ白になり、絶望感と自責の念で一杯でしたが、今度は- それほど驚きませんでした。主治医はまた手術をすると言っていましたが、「今度は放射線で」と、お願いしたところ、しばらく考えていましたが「それでは、大学病院に紹介状を書きましょう」と言ってくれました。
その大学病院で待っていてくれたのが、S先生なのです。もちろん初対面でしたが、それから今日までお付き合いいただく間柄になったのです。
大学病院での治療は、内視鏡的手術と抗がん剤治療、そして放射線治療の「集学的治療」というものでした。
約半月間の闘病で順調に終了したのですが、S先生が「ダメ押し治療」と言って、抗がん剤治療と放射線治療を6回追加したのです。それが以前より辛く苦しい副作用だったので、S先生を何度も恨みました。
でも、こうして今も元気に延命できているのは、あの「ダメ押し」のお陰と今では足を向けて寝られません。
それとS先生が「患者もがんのことを勉強しないと治療はうまくいかない」と言って「患者会」を立ち上げてくれました。
その会が今では法人化(S先生理事長)され、毎月1回の共同勉強会が開催されるようになり、つい先日100回目を迎えました。そして会員の登録者数も660人を超えています。
このがん共同勉強会のレクチャー2時間は、全てS先生がボランティアで行われています。
僕が元気でいられるのも、この会の事務局を担当させて頂いていることが大きな生きがいになっていることは確かです。
S先生には感謝の念に堪えません。
76卵巣がんご本人
先生、今のタイムをありがとう
「元気にしとったかいな!」。これは私が外来で行くたびに先生からいただく言葉です。「はい、元気にしとりました」と答える私です。2年前の秋頃初めて出会った先生です。「病名は卵巣がん。- もう手術できる状態ではないから化学療法をしながら様子を見る事にしよう」とのお話しで、すぐに治療が始まりました。入退院を繰り返しながらの日々が平成30年7月まで続き8月からは、飲み薬の治療となりました。今、2週間ごとに「元気にしとったかいな!」の先生の言葉を聞くのを楽しみに病院へ行っております。病気の数値も下がり食欲満点です。ながらくの入退院で足が弱りシルバーカーでの生活ですが、家族の炊事もやっています。今、76歳の一休さん頭の主婦andかあちゃんです。
75腎臓がんご本人
3年前の秋、私はT病院に人間ドックの結果を聞きに行きました。担当のK医師はエコーで撮った内臓の写真を見ながら「左の腎臓に白いがん細胞が見受けられます。MRIの精密検査が必要です」。検査の結果は疑いもなく「がん」と診断された。「できるだけ早く手術をしましょう。- 取り除けば、これからの人生はずっと楽しくなりますよ」。K医師の言葉に「信頼」と同時に自分の「体」を預ける決意ができました。
3時間余りの手術が終わった時、K医師は笑顔で「左の腎臓を無事取りました。手術は成功です」。
2週間の入院生活中、看護師の優しい声掛けと笑顔はとても印象的でした。K医師は「これからの時間を大切に、旅にでも出かけてください。新たな世界が広がりますよ」。その一言で曇っていた心の中に日が昇り始めました。
昨年春、私はポルトガルへの旅に出かけ、ロカ岬から眺めた日の出は「生きる希望」を与えてくれました。
ご本人
O先生、大変お世話になりました。基礎検診で、初期ガンをみつけていただいたこと、何より有り難いと思っています。告知のときも、別室で深いご配慮をいただきました。手術はO先生が怪我をなさり、代わりにお若いH先生のご執刀でした。傷跡は美しくはないけれど、機能は完璧でした。- 手がうまくあがらなくなることを覚悟していましたが、リハビリなしでほとんど真上に上げることが出来ました。これは本当にすごいことだと、深く感謝しています。医師親子3人+事務長の奥様、ご家族全員体制、アットホームな雰囲気でよくお話し、ケアしてくださいました。抗がん剤治療の間、入院を勧めて下さり、おかげで無理なくゆっくり休むことができました。時折演奏会なども開いて下さり、病院から週一、大学の講座に通うことも許可してくださるなど、自由で楽しく、ストレスレスの入院生活でした。Y先生は退院後の検診の度に、私の社会活動の話を良く聞いて下さり、喜んで下さったことも、とても励みになりました。書き切れないほどの感謝があります。本当にありがとうございました。
57乳がんご本人
去年の春がん告知を受けた私は支援センターでいろいろなアドバイスをしてもらいました。でも来年生きていられるか分からないのに正直先の事は考えられませんでした。すると 相談員の貴方は何の気負いもなくさらりと「そんなすぐに死にません 」と言いました。私は少し衝撃を受けそして少し、嬉しく- なりました。治療はまだ続いていて不安もあるし決して前向きな訳ではないけれど、あの時の貴方の言葉が今も私を支えてくれています。
40食道がん、胃管がん、下咽頭がん、肝門部胆管がんご家族(娘)
父は2000年に最初のがんを患い、その後も長年闘病生活を送ってきました。入院中、先生が毎日病室へ来て下さる事が、父のリハビリへの力になっている様子でした。退院後の外来診察では、大きな手術をしていても、趣味のドイツ旅行へチャレンジ出来る事を教えていただき、何度も訪れる事が- 出来ました。
父は、痛い辛い等、一切言わず、常に前向きで、笑顔多く過ごしてきました。これらは、先生を始め、周りのスタッフの方々のおかげであると思っています。有難うございました。
21乳がんご本人
当時書きためたポエムは、ぜんぶ電子の海の藻屑になっちゃいました。学校生活の悲しみを打ち消すように書き綴った思春期の大本営発表が大半なので、ホッとしたのは事実なんですけど・・・でもでも「自分と教師、間違っているのはどちらか?後の歴史の判断に委ねたい」みたいなのが未決着で
31乳がんご本人
先生は、私にとって大地です。私の心の天気がどんなに変わっても、いつもどっしりと落ち着いて構えてくれています。この4年間を思い出すと恥ずかしてたまりません。検査の結果や治療方針によって泣いたり、絶望したり、諦めそうになったり、たくさんの感情が私の中を駆け抜けました。- その度に診察室での私の態度はガラリと変わりました。どちらかと言えば、天候不順のほうが多かったです。
2回目の脱毛の前、先生は髪の毛が抜ける薬剤を避けようとしてくれました。髪よりも命を優先したいから気にしないつもりが、いざ抜けてみると私の心は大嵐です。そのときも先生はいつもの穏やかな調子で慰めてくれました。
私のような慌ただしい患者にとって、先生がどんな日も同じような態度で同じように接してくれることはとても心強いです。これからも私の心は変化し続けますが、先生という大地
が安定していると治療を続けていけます。いつもありがとうございます。
58乳がんご本人
私は、祖母が信仰に篤い人であったためか、同じしぐさで手を合わせ、お祈りをすることが一日の始まりという暮らしを続けてきました。自宅近くにはキリスト教団体が経営する病院があり、毎年の区民健康診査、2015年乳がんの発見から手術と、神さまを信じる人たちに私自身を委ねることは、- とても自然なことでした。そして手術の日。執刀医、主治医でもあるS医師は手術前に「ここはキリスト教に基づく病院なので、お祈りをします。神さま、今日この手術が神さまのお守りのうちに成功しますように。アーメン」とお祈りをされました。私は安堵して麻酔の眠りに入ってゆきました。術後3年半が経ちましたが、がんに罹り、最新の医療、最善の治療が施されてもなお人は、神さまに全てをお任せするほかないと私は考えます。あの日、私の命のためにお祈りをしてくれたS医師に、心からの感謝を申し上げます。
75ALアミロイドーシスご本人
セカンドオピニオンの推薦状を貰いN医療センターへ副院長先生を訪ね問診・検体検査の後面談。「即入院と告げられた」それが2014年10月7日4週間の入院。担当のY先生から予後は短い、4か月の間緊急出動があってもN医療センターでは手を下さない。最後通牒ともとれるお話し、妻と茫然とし- て帰りの電車では沈黙。しかし今は2018年10月13日となり4か月が4年を過ぎている。是も早期発見診断治療が功を奏しているのは両先生のお蔭以外にない。諸々の数値も低位安定を続け維持管理ができている。海外旅行もできている
私の質問にも丁寧に答えて頂き実行できている。入院中のベッドの中家に帰ってからのベッドの上で両先生をはじめ看護師さん給食センターの皆さんからすべての病院関係者の皆さんに感謝あるのみ「ありがとうございます」これしかない。
57乳がん(非浸潤乳管がん)ご本人
K先生、入院中お礼をお伝えしてなく、初回の通院日にもお礼を申し上げるのを忘れていました。6月に検診で初めて乳腺では引っ掛かり、最初の外科では確定診断が出ず、二番目の乳腺外科では切らない先端治療にこだわっていた私を納得させるためにK病院に行くように勧められました。- 母が電話をして翌日に治療を受けて下さって先生にお目にかかることになりました。確定診断後、リポートで知りましたがHER2の強陽性でした。浸潤になる前に確定後、わずか10日ほどで先生が手術をして下さったので非浸潤のままでした。浸潤か非浸潤かで生きる道がかなり変わると思うので本当に感謝しています。これからも宜しくお願い致します。
39乳ガンご本人
いつも、笑顔で迎えてくれてありがとう。すでに、あなたのいる部屋の治療を卒業して、早3年。
あの部屋で色々話をしましたね。趣味や家族、仕事のことなど。泣いたり笑ったり化学療法は辛かったけど、あなたと話をするのがとても楽しみであの部屋に来てました。同じ看護師として、仕事をして- いる姿はとてもキラキラして憧れです。それは今も変わりません。
私も早く元気になって仕事がしたい。あなたを見ているとそんな気持ちになりました。
あなたがいなかったら看護師を辞めていたと思います。
心の支えになってくれてありがとう。まだ看護師を続けています。
これからも同じ病める人の支えになってください。また治療室に顔を出しますね。
57乳がんご本人
平成22年11月、右乳房にできたしこりの精密検査で、不安な気持ちで初めて先生の診察を受けました。第一印象でなぜか「あっ、この先生なら大丈夫。」と感じたことを今でも鮮明に覚えています。人気のない待合室でひとり椅子に座って待っている私に、診察室のドアを開けて声をかけて- くださった先生の暖かさに救われた思いでした。ガン告知の際も、「一緒に頑張りましょう。」の言葉、まさに生きる希望をもらった瞬間でした。
あれから手術、治療を経て8年の月日が流れ、私は元気に生きています。医療者が患者さんにかける言葉の重みを胸に、私は医療ソーシャルワーカーとして一歩を踏み出しました。先生がかけてくださった暖かい言葉の数々を心に刻み、私も患者さんやご家族に寄り添えるソーシャルワーカーを目指して日々奮闘しております。
先生、本当にありがとうございました。そしてこれからもどうぞよろしくお願い致します。
41乳がんご本人
がん再発が分かってから、不安と絶望しか頭になく、毎日の思考も停止していた時「がんの再発や治癒は神にしかわからない。しっかり治療して行きましょう。」と主治医の先生より励まされ、目を背けていた自分の不良細胞と向き合う事ができました。事実、現実逃避するより自分の病気を勉強する- 事により病気への恐怖が減る事に気がつきました。また手術前には周りの看護師さんたちがテキパキと手術の用意を整えているのを感じ、安心して手術に望めました。入院中も先生は外来などで忙しい中、病室によく訪れていただきました。その際に優しく声がけする一方で手術の傷口を見るのをためらう私に「帰宅後はあなたが傷口を見張る事になるので、入院中に一度はじっくり見る事。」と叱咤をいただき気を引き締めました。また今後の治療方針に関して、腫瘍内科の先生と連携を取りながら真摯に対応していただいております。本当にありがとうございます。
47乳がんご本人
先生、私、先生が主治医になって下さり、幸せです!
治療の中で、私が一番緊張したのは、病理結果を聞く時でした。外来で呼ばれるのを待つ間、緊張のあまり頭がガンガンし、結果をきちんと聞けるか、不安一杯でした。そんな中、先生は、「がんについて分からない事はない?」と、がんについて
- 勉強したいと言っていた事を覚えていて下さり、心をほぐして下さいました。その後、結果を丁寧に説明して下さったり、質問に即答下さったり、先に意識が行ってしまう私の考えを制止してアドバイスして下さったりして、誠実に接して下さいました。また、不安については、データを見せて下さったり、他の科を受診できる様に手配下さったりして、気付くと、頭痛はすっかり治っておりました。
先生から納得できる治療を示して頂け、前を向いて生きていけそうです。がんになってしまったのは辛いですが、先生との出逢いに感謝します。ありがとうございます。
47乳がんご本人
「いつでも呼んで下さいね。」師長さんの一言で、頑なな心が緩みました。夫は闘病中、遠方の父母も次々と闘病生活に入り、元気な自分が支えなければ、と思っていた矢先の病気発覚。病気の事を聞いても理解出来なかったり、勝手に想像しては落ち込んだり・・・告知前の外来での診察は、- 怖い場所でした。誰も助けてくれない。自分で何とかしたくても、どうにもできない。パニックの状態でした。そんな時、告知時に同席下さった師長さんが、診察後に、話を聞いて下さいました、長時間。私の気持ちを丸ごと受け止めて下さり、不安に思っていた事を簡潔にまとめて下さったり、外部と繋がる様に手配して下さったりしました。
師長さんが助けて下さる、という安心感から、病院は怖い場所でなく、助けて下さる場所になりました。そして、病気に対しても、人生に対しても、何とかなるかな、と前向きになれました。師長さんには心を助けて頂きました。ありがとうございました。
37乳がんご本人
地元の病院で思いがけず乳がんの告知を受けた時、私は35歳になったばかりでした。追加の手術が必要となり、すがるような気持ちで先生のいる東京の病院を訪ねました。毎回診察の時には、私が持参した質問ノートを一緒に覗き込みながら、どんな小さな疑問も、得体の知れない大きな不安も、時間- をかけて取り除いてくださいました。抗がん剤治療をどうしても避けたかった私に寄り添い、一緒に、もしかしたら私よりも頭を悩ませて、様々な可能性を考えてくださる先生のお姿を見て、私は先生に巡り会えて良かった、これからもこの方に命を預けていこうと思ったものです。
突然病気と向き合うことになった患者にとって、医療と治療はイコールではありません。体と心、そして生活がすべて繋がっているからです。私は先生のおかげで、がんを受け止めることができました。真の医療者である先生のお志を、今度は私にできる形で、誰かに還元していきたいと思っています。
56肺腺がんご家族(妻)
夫が肺腺がんと診断されたのは2015年の春でした。ステージⅣで抗がん剤で治療していくしかなく、紹介された都心の病院はあまりにも遠く、地元の病院で治療したいとドクターに伝えると「どこで治療しようとも、何かあったら必ず力になりますから連絡してください。がんも他の慢性病と同じ- です。薬で治療しながら、長く付き合っていけばいいのです」と言ってくださいました。その言葉は夫にとって、とても支えになっていました。
地元の病院のドクターも、いつも穏やかで優しくて、充分なコミュニケーションを取ってくださいました。夫が亡くなるひと月ほど前、周りからいろいろ言われて混乱していた私に「奥さんの選ぶ道は、いつも正しいですよ。絶対に間違ってはいないですから、大丈夫ですよ」と言っていただいたのが、どんなに心強く嬉しかったことか。
お世話になった先生方に心からのお礼を申し上げます。
60膀胱がんご本人
身体に違和感抱き病院に通いだし2015年6月にガンと告知され何度も手術。今の病院を紹介され最初は遠いので躊躇していたのですがH先生に会えて本当に良かったと思います。12時間大手術後の不安な気持ちになったときにも治療方もわかりやすき伝えてくださる。気持ちが落ち込んで看護師さんに- 不安な気持ち、痛み、家族に迷惑かけて重荷になっている事を話していてもちゃんと先生に伝わっていてその都度不安を取り除いてもらえました。入院生活で家族への思いを看護師さんに涙ながらに話し忙しいにも関わらず対応してもらえた。長い入院生活もH先生はじめチームの先生方、看護士さん達のおかげで治療もなんとか頑張れてます。H先生チームの先生方、看護士さん達にめぐり会えた事に感謝します。まだまだ先は長いのかも知れないのですが前向きに頑張れます。
64子宮がんご家族(夫)
手術した病院から今年も手紙が来た。お元気ですかとの裏には、生きてますかとの言葉も含まれている。妻の子宮がんが発見されたのは、末っ子の出産の時だった。職場が大学病院だったこともあり、簡単な気持ちで入院・出産したが、組織検査の結果がんと判定された。早期発見であったが、子宮は- 全摘出であった。その後、夫婦には精神的にも身体的にも辛い日々が続いた。その中での楽しみは三人の子供たちの成長であった。数年後、我々一家は私の故郷島根県松江市に転勤となり、新しい生活になじもうとしていた。そこへ、手紙が来た。当初は5年生きることは半々だと言われていたが、投薬と妻のもっぱらの明るさから病魔は退散したようだ。しかし、一年に一度は手術した実家のある大学病院へは、里帰り受診のため意気揚々と帰った。その甲斐あって、30年後ホルモンバランスのせいか、ふくよかな体形にはなったが、末っ子の孫を抱いてまだまだ元気です。
64乳がんご本人
私は、2017年7月、乳がんが肝臓と骨に転移し、ステージ4の診断を受けました。2年生存率が50%との説明を聞き、全身抗がん剤治療しかできないとのこと、薬の効果や副作用の説明を受けた後、副作用を承認するための署名捺印を求められました。1週間の猶予をもらい、副作用の少ない
- 治療法を探すべく寝る時間も惜しんで調べ、N先生の本に出会いました。そして、N先生の治療方針に委ねることにしたのです。N先生は、「治せるための治療をしましょう。」と言ってくださいました。「ステージ4は、治らない!」が常識の中、本当に嬉しかったです。N先生の紹介で、局部抗がん剤治療を受け、乳房と転移した肝臓のがんが画面上から消えました。そして、骨転移の放射線治療を終了し、髪の毛も抜けず、健康の頃のような生活をしています。「治せるための治療・・・。」めさず目標がすばらしい!2018年11月、経過観察の血液検査とCTを受ける予定です。
31乳がんご本人
2年前のできごとです。診察室を出たあと、私はポロポロ涙を流していました。上手くいかない治療からの閉塞感で頭がいっぱいのまま化学療法室に入り、スタッフの皆さんはギョッとした顔で私を見ていました。そのとき、さっと駆け寄ってきてくれたのが看護師のOさんです。Oさんは子供みたい- にたどたどしい私の話を落ち着いた調子で聞き、私の状況を受け止め、ご自身の経験を分け与えてくれました。最後に温かいまなざしで、「一生懸命生きていたら、きっといいことあるよ」と一言添えられたとき、私の心はふっと和らぎました。
科学としての医療は大事ですが、心は方程式のようにはいきません。あのとき、私は自分の闘病生活を「大丈夫だよ」と言ってもらえたような気がしました。根拠はなくても、科学的でなくても、小さな希望は可能性となって、今も私の生き方を温かく照らしてくれています。私を尊重してくれて、どうもありがとうございます。
68肺腺がんご本人
あの日先生から「肺腺がんステージ4」と言われたとき頭の中が真っ白になって、後のことは何も覚えていないんです。しばらくして同席していた妻に聞いて、先生が勧めてくださったセカンドオピニオンを受けて、その上でやっぱり先生にお任せしようと決心できました。今の状態、これからの治療- 方針を手書きし、詳しく説明していただいたことで勇気をもらいました。僕の希望、「今まで通り仕事がしたい」「ウオーキングもマラソンもしたい」先生は深くうなずいて検査の日や入退院の日を融通してくださったこと、うれしかったです。美容師としてハサミを持てなくなるくらいなら治療しないなんて言ったけど、良く考えると先生を困らせることばかり言っていますね。
先生と薬のおかげで今も仕事をしながら趣味も楽しみ、発病前より一分一秒をかみしめて生活しています。
毎月の診察の最後に先生とかわす握手。僕にはこれが一番の特効薬です。S先生、ありがとう。
56乳がんご本人
「初期の段階ですが、6センチの範囲ですから全摘が望ましいですね。」「全摘ですか!毎年のマンモグラフィーと、二年に一度のエコー検査うけてたのに。」下を向くわたしの脳裏には、10年前に全摘した母の薄くなった胸が浮かぶばかりです。先生は治療方法を一通り説明した後「今は、保険- で再建ができますよ。」と教えて下さいましたね。その一言で、未来がぽっと明るくなりました。
「温泉が好きなんです。きれいな胸ができますか?」「わかりました。形成外科の先生に連絡してみます。」術日まで日がなかったので、当日中に相談ができるようお願いしてくださったお蔭で、わたしは一日のうちにドーンと落ち込んで、スゥーっと上がってこれました。
今、友人たちに「おっぱい育成中!」と文字どおり胸をはって話せています。再建を教えてくれたこと、そして先生が女性で話しをしやすかったことに感謝しています。
50卵巣がんご本人
8月に卵巣摘出の手術をし、10月に子宮全摘の手術のため二回目の入院をした時の事だった。正直、一回目の開腹手術から間もなく、あの術後の痛みを再度味わうのかと、ブルーな気持ちで入院手続きをしていた。そんな時、入院前のカウンセリングで、20代の看護師さんに「退院後、何か没頭できる- 趣味はありますか」と聞かれた。正直退院後の事まで考えていなかったので、すごく新鮮な質問に聞こえた。手相を習っていたので「また誰かの手相を見たいな」と言うと、看護師さんは興味を持ってくれたので「手を見てもいい? 」とお聞きし、見せていただいた。その手は、まだ若いのに精一杯頑張って、一生懸命生きている必死な手だった。その手を見て私も、泣き言は終わりにして、病気と対峙しようと、ストンと何かが落ちた気がした。術後の1番長い苦しい1日も、彼女が担当で、その頑張り屋さんの手で温かく看護をしてもらいました。看護師さん、私はあなたの必死に生きている手によって救われました。
68乳がんご家族(夫)
半年前の検診では何もなかった乳房に19ミリがんが現れ、その成長力にびっくりされた先生は、優先的に手術の手配をしてくれました。約1か月後に摘出したがんは、直径24ミリにまで成長していたのです。手術の直後、待機していた私と息子に先生は摘出部とがん化した部分を見せてくれました。- そして今後の治療の方針を丁寧に説明してくれました。先生は淡々とした口調で話されたのですが、それはできる限り感情を表に出さないためだろうと思いました。専門的なことが分からない僕たち患者家族は、先生のどんな表情も見逃すまいと真剣なのです。それが分かっているからこそ、患者や家族たちが過度な期待や希望、また悲観や絶望の気持ちを持たないようにしているのではないでしょうか。
先生と看護師さんたちからの「頑張りましょうね」「頑張ったね」と声を掛けられるだけのことが、本人も家族も大変勇気づけられることが、病気をしたからこそ身に浸みて感じました。
63大腸がんご本人
56歳でステージ2の大腸ガンが見つかり入院。手術後に予想外の敗血症で意識を無くし、喉には人工呼吸器。二ヶ月後に意識は回復するも寝たきり状態が続きました。こんな自分が情けなく、悔しくて腹立たしくて、一人になると思わず涙が込み上げ、布団の中で泣いていました。そんな私に病棟の- 看護師さんは、私の病状に同情する風でもなく、友達と話すように、楽しそうに声掛けしてくれました。「私の名前覚えてください、下の名前も!フルネームですよ!」「同期が7人いるんです、全員覚えてくださいね」「顔と名前は一致しますか?」などなど、検温でも薬を持ってきた時も声掛けは続きました。それは沈んでしまった私の気持ちを引き上げてくれました。声掛けは応援と同じなのです。リハビリを含めて六ヶ月に及ぶ入院を乗り越えられたのは、看護師さんの声掛けのちからだったと思っています。
62乳がんご本人
乳がんでは?としこりに気づいた翌日には病院に走っていました。腫瘍は小さく、悪性のものかどうかもはっきりしないけれど「どうも形が気になるんだよね」とおっしゃって手術を勧められました。どんなに軽症であっても、がんはがんです。誰でも落ち込みます。手術後病室に来られた先生は- 「結果は良いものではなかったけれど、これから一緒にがんばって治療していきましょう」と声をかけてくださいました。一度がんを経験するとからだの不調をすべてがんに結び付けてしまいます。先生は異常な状態ではないことを知っていながらも私の不安を決して否定することなく適切な検査を行い、不安を取り除いてくださいました。
でも、何より感謝したいのは「様子を見ましょう」ではなく、手術を勧めてくださったことです。手遅れにならなくて本当によかった。
今では「老後があるなら儲けもの」をモットーに充実した毎日をすごしています。
45脂肪肉腫ご本人
風呂で左太ももにある30センチほどの傷跡を見ると思いだします。いつの間にか左太もも内側にシコリができ、痛みはなかったのですが、大きくなってきたので軽い気持ちで診察を受けに行くと、瞬く間にCT検査から生検となり、結果を聞きに行った時には脂肪肉腫の病名を告げられると共に「いつ- 入院できる?」と問われました。ジェットコースターのような展開に言葉が出ませんでした。がんと聞き頭が白くなり、家族は?仕事は?親は?…心が不安定になったところに「希少疾患で、個々の腫瘍の予後について正確なデータはありません」と言われ絶望を感じたその時に、主治医から冷静な口調で「受け入れて、前を向こう」と言われました。この一言で吹っ切れ、その後は医師を信じ良き患者になることに努め、手術・化学療法を経て仕事に復帰、再発はしていません。この先何があるか分かりませんが、助けていただいた命を大切に「受け入れて、前を向く」人生を過ごしていきたいと思います。
41乳がんご本人
無事術後2年を迎えることができました。これまで、何度も泣く私に、先生はいつも寄り添ってくれました。先生の『泣かないで』の一言がとても温かかったです。抗がん剤の副作用で卵巣機能が停止することは、思ってもおらず、胸もなくなるかも知れない、卵巣機能もなくなるかも知れない、- 突如目の前に突き付けられた現実は、あまりに残酷でした。先生は、私が納得のいく選択ができるように最善を考え、全ての選択肢と可能性を示してくれました。卵巣の凍結を迷った時、話をするだけでもしてきたらと電話をくれたこと、本当に感謝しています。
がんと言う病気は、命を選ぶ辛い決断の連続でした。先生のおかげで納得いく選択と決断ができました。
先生が『辛い抗がん剤治療に耐えられた彼女なら、何でも乗り越えられるでしょう』と言ってくれたように、先生が繋いでくれた私のこの命が燃え尽きるその日まで、ガンガン燃やして生きたいと思います。
41乳がんご本人
無事術後2年を迎えることができました。乳がんになって前を向こうと気持ちを切り替えられたのは、先生の『もっと先生を信用したらどうですか?』と言う言葉でした。先生を信用しようと決めてから、随分心が楽になりました。それまでは、心も身体も辛い抗がん剤治療が本当に効くのか、- 不安と疑心暗鬼の毎日でした。でも先生のこの言葉で、私は先生を信じるしかないのだと、先生を信じる決心ができました。術後の病理の結果、抗がん剤治療が効いて、がん細胞は消えてしまっていたそうです。不安になった時は、先生の『人間の身体って本当に神秘だから、気持ちで負けるな』と言う言葉を思い出して、私の身体がこんなに頑張っているのに、心で負けるなんて私の身体に申し訳ないと、気持ちは常に絶対に負けないんだと思うようになりました。命を選ぶということは、辛い選択と決断の繰り返しでしたが、先生の言葉が背中を押してくれました。決める勇気は生きる勇気でした。勇気を有難うございました。
74前立腺がんご本人
やはり、自分もかという前立腺がん手術の経験でした。適切な処置をしていただいた医療に関わる関係者の皆様に対しての感謝についてまとめます。PSA値をモニタする医療機関とのめぐり合い、その値がゆっくりと上昇カーブをたどってゆくなかで第三者オピニオンをと進めていただいた知人、- その勧めで高感度MRI画像診断を受け、その結果に丁寧な説明をしていただいたベテランドクタの、「がんはありますね、処置が必要でしょう」との言葉、その勧めでダヴィンチロボットを操作し執刀していただいた若手外科手術ドクタ陣、2週間にわたる長期入院でお世話になった多数の看護師・・と、思い返すと多くの方々にお世話になって、早くも3年半たちます。全てラッキーということで、感謝のみですが、多くの方々が役割をきちんとこなしながらお仕事をされていることに感銘を受けました。
社会体制の定まらぬ国々での、劣悪な医療事情のなかで奮闘する医療関係者もこれも役割でしょうか。医療の背景には自己犠牲的精神があるのかもしれないと今頃思う未熟人の独り言ですが、有難うございました。
62肝細胞がんご家族
Y病院の皆さまへ。
夜の退院で、お世話になった皆様に、お礼を申し上げることができませんでしたので、手紙でのお礼にて、お許し下さい。I先生、看護師の皆様、看護助手の皆様、他、ホープハウス全てのスタッフ- の皆様に、心よりお礼申し上げます。
母は、認知症があり、自身の病気のこと、ホスピスのこと、全く認識できず、介護にも多くの手間を要しました。
それらは、ホスピスの入院の要件に該当しないにもかかわらず、母の病状・私の状態等をご考慮下さり、ご厚情により、受入れて下さったのだと思っております。
四十六日間の入院生活では、皆様の細やかな看護と、温かいお言葉・気配りに、どれほど励まされたことでしょう。安心した最期を、母と二人で過ごさせて頂きました。
ただただ感謝の言葉しかありません。
最近「人の最期は、住み慣れた自宅で療養するのが幸せである」よく耳目に触れますが、
母の最期を、ホープハウスで、母の傍らで過ごさせていただき、私は、人生の終末は「場所」ではなく「終わり方」であると痛切に感じました。
自宅では、私では、日々の介護に忙しく疲れ、安心は得られませんでした。
母の苦しむ姿を見続け辛く、毎日、母と二人、心中することばかり考えていました。
最期の四十六日、私は救われましたし、きっと母も救われたことだろうと思っております。
ほんとうに、ありがとうございました。
末筆になりましたが、厳しい寒さが続いております。日々、ご多忙の皆様には、くれぐれもご自愛のほど、お祈り申し上げます。
ありがとうございました。
10大腸がんご家族(娘)
お父さんの病気をなおしてくださった先生へ
私が4歳のとき、お父さんは大腸がんになりました。見つかったとき、すでに肝ぞうにも転移があって、大変な状態だったそうです。その時、お母さんのおなかの中には妹がいました。私はその頃の- ことをあまり覚えていないけれど、発表会に来ることができなかったお父さんのために病室で踊りを見せたことを少し覚えています。その後、お父さんは手術と抗がん剤治療をして、6年経った今も元気に過ごしています。病気の時は発表会に来られなかったけれど、妹が生まれたときも、私の入学式も運動会も発表会も誕生日も、いつも近くにいて私と妹の姿を喜んでくれます。お父さんのおなかには大きな傷があります。その傷は先生がつけてくれた傷です。いつもお母さんが「先生が手術をしてくれたからお父さんは助かった」と話してくれます。その傷のおかげで私たち家族は毎日幸せに暮らせています。先生、お父さんを助けてくれてありがとうございました。
76胃がんご本人
11年前、胃がんで入院し、手術した。不安でいっぱいだった。でも、自分で平常心を保とうと思い、努めて明るく振舞っていた。本能的にそうしていたようにも思う。そんな私に、主治医をはじめとするアシスタントの医師や看護師の方々は、いつも笑顔で普通に接してくださった。- 病室に入って来られた医師が「一番いい部屋なんだよ、ここは」とおっしゃった。窓から見えるお台場の夜景や、3時から明るくなる市場の風景。眠れなかったことを覚えてはいないけれど、夜の景色を覚えているということは、眠れていなかったんだろうと思う。「Kさんは明るいから、Kさんの言うことは先生も聞いてくれると思うよ」と、別の医師から言われたこともある。医療者たちの一言一言に、ほっとするところがあった。おかげで、楽しく入院できた。不安はあったが、不満はまったくなかった。退院後も、精神的にケアされている。素直に甘えさせてもらっている。
49肝臓がんご家族(孫)
18年前、肝臓がんがわかり、最後の時間を家族と過ごすために祖母が退院し、訪問医療を受けることになりました。最初の訪問の時、先生は私たちに思いがけないことをおっしゃいました。「これからおばあ様の様子が変わることがあります。言葉遣いや態度が変わっても、それはおばあ様ご自身が
- 変わってしまったのではありません。病気のせいだから悲しむ必要はありませんよ。」
ほどなくして、その意味が分かりました。肝性脳症の症状が出始めたのです。私は、上品でチャーミングな彼女から発せられる言葉に耳を疑い、目を覆いたくなりました。祖母が壊れていく、そう思いました。同時に先生の言葉を思い出し、私の中で彼女の尊厳は保つことができました。もしも、その説明を受けていなかったら、変貌した姿を受け入れられずに失望してしまったのではないでしょうか。おかげで、思い出すのは、チャーミングで上品な祖母の姿ばかりです。
49子宮頸がんご本人
10年前、子宮頸がんがみつかり、円錐切除術を受けました。その3年後、子宮筋腫もあり子宮を全摘しました。全摘手術の2日後、異変がありました。子宮という愛おしく力強い存在を失った喪失感と、私の幸福の源である子どもたちを育ててくれた子宮をただ自分が生きたいがために葬ってしまった
- という罪悪感。私は言いようのない気持ちに埋め尽くされそうになっていました。
翌日、回診の際にその気持ちを打ち明けると、先生はにっこり笑って私の子宮を称賛し、労ってくださいました。思えばハードな子宮環境でした。10代からつらい月経痛がありましたし、3人の妊娠出産も大仕事だったことでしょう。出産後は子宮筋腫による月経痛、挙句の果てに子宮頸がんと子宮が休まる暇はなかったはずです。
先生の一言は、喪失感を感謝にかえ、罪悪感から解放してくれました。今は、かわいい男の子の母になられた先生に、あらためてお礼を言いたいです。ありがとうございます。
47胆のうがんご家族(娘)
父の手術に立ち会うことになったのは、夏の暑い日の昼間だった。末期の胆のうがんに侵されていたなんて。母は近くに住んでいた祖父母にしか相談して居なかったため、何も知らずにその場にいた私は突然の告知に戸惑い、まるで両生類の卵のようながんの塊を眺めたまま立ち尽くすしかなかった。- その辺りにいた看護師さんの表情だけが救いだった。彼女は青ざめていた。私の気持ちを慮って下さっていたのがわかった。わずか半年後54歳で旅立った父のことを思い出す時、肉親と同じ気持ちでいてくれたことに感謝している。